『和解~インナーチャイルドを癒す~ 』を読みました。
仏教というかマインドフルネスでも、インナーチャイルドを癒すっている考え方があるんだということを初めて知りました。
ざっくり言うと、マインドフルネスのエネルギーでインナーチャイルドを癒す方法が書かれています。
自分のために、何度も読み返したいところを抜粋してみました。
目次
先祖とともに歩む
私たちの体内には、あらゆる過去の世代と、未来の世代が存在しているとか考えることもできます。
「自己」というものと「自己でないもの」の密接な関係が見えれば、無知は癒され、おのずと苦しみ、怒り、嫉妬、恐れ、絶望も癒されるのだそうです。
私たちはいのちの流れの続きです。両親からは認められなかったとしても、祖父母や先祖は私たちに生まれてほしかったのです。祖父母や先祖はいつでも、私たちに継いでほしかった。それが真実です。このことがわかれば、親の振る舞いにあまり苦しまなくなるでしょう。あるときは愛に満ち、あるときは怒りに満ちている親たち。その愛と怒りは、彼らだけでなく、これまでの世代すべてから引き継がれてきたものです。このことが見えれば、自分を苦しめたからと親を責めることはなくなります。
原初の恐怖、原初の欲望
人は生まれたときに、原初の恐怖「一人にされる恐怖」と原初の欲望「生き延びたいという欲望」ができ、成長して大人になっても原初の恐怖と欲望はそのまま存在するそうです。恐れと欲望の根本は同じで、ありとあらゆる欲望は原初の欲望からきているそうです。
根本の望みを満たさない限り、欲望につぐ欲望が決して止むことはありません。
苦しみの効用
苦しみには効用がある。これを知るとちょっと気持ちも楽になりますね。
苦しみを理解する力は、慈悲と愛につながります。理解、慈悲、愛なしに、幸福にはなれません。
苦しみを理解すれば、もう誰かを責めることはなくなります。慈悲深く、受け入れられるようになります。
苦しみは有意義なものです。苦しみに対処する方法がわかっていれば、そこから学ぶことができます。しかし、知らなければ、苦しみの海に溺れてしまいかねません。苦しめばこそ、理解する力が増し、理解すればこそ、受け入れ、愛する力が増します。理解と愛なしには、どんな幸福もありえません。
苦しみと幸福は切っても切れない関係にあるのですから、苦しみを恐れるべきではありません。人は苦しみから学べる、そのことを私たちはしっかりと知る必要があります。苦しみをそっと優しく抱きしめながら深く見つめ、そこから学びましょう。
苦しみとは道のようなもの。苦しみの道を通って初めて悟りの道、慈悲と愛の道が見えてきます。悲しみや苦しみから逃げず、その本質を深く見つめていくことで、そこから抜ける道が発見できます。
心に留めておくべき五つの項目
誰もが持っている「恐れの種」を、見いだし、抱きしめ、深く見つめられるようにブッダは「心に留めておくべき五つの項目」と呼ばれる実践を教えているそうです。
1、私は老いるものである。老いから逃れることはできない。
2、私は病むものである。病から逃れることはできない。
3、私はやがて死ぬものである。死から逃れることはできない。
4、私が大切にしているものも愛するものも、すべては移り変わりゆく。別離から逃れることはできない。何一つ、とどめておくことはできない。私はここに何も持たずに生まれ、何も持たずに去っていく。
5、私の唯一の持ちものは、自分の体、言葉、心による行為(業、カルマ)のみ、行為の結果からは逃れられない。自分の行為により私は成り立っている。毎日、呼吸に気づきを向けながら、一つひとつの項目について深く見つめる時間を持ちましょう。
子供の頃からずっと抱えてきた苦しみに対処する方法
3つの方法があるそうです。
一つ目は、幸福の種をまき、水やりをすること。直接、苦しみの種に働きかける代わりに、幸福の種に苦しみを変容させてもらうのです。これは間接的に変容させる方法です。
二つ目の方法は、苦しみの種が湧き上がってきたときに認められるよう、マインドフルネスを継続的に実践することです。苦しみの種が姿を現すたびに、マインドフルネスの光のお風呂に漬からせてあげるのです。
三つ目の方法は、あえて苦しみの種が意識に上がってくるように招くこと。これまではつらくて触れられなかった寂しさ、絶望、後悔、切望などを招いてともに座り、昔からの友達のように話しかけます。ただし招く前には、必ずマインドフルネスの明かりを灯し、ゆるぎなく強い光にしておきましょう。
人生をあるがままに受け入れる
私たちは人生には生病老死がつきものだと知っていますが、それにあらがいたくなってしまうものです。
老いや死の恐怖を乗り越えるには、まず、自分の中に恐れがあると気づくことです。
次の段階として、「恐怖から逃げ出さない」と心を決めます。恐怖は不快なものですから、逃げ出したくなる傾向が私たちにはあります。
「自分は今いるところにとどまり、恐れを深く見つめ、受け入れる」という覚悟を確立することです。第3段階は深い洞察によって反応する。恐れを深く見つめ、味わっていると、恐れに自分がどう反応しているかに気づきます。どうしていいかわからないと混乱したり、ないものとして否定してかかったりしているかもしれませんね。一方、親切に受容的に、思いやり深く反応することもできます。そのように反応すれば癒しがおこります。
どうしたら親を受け入れ、包容できるほどに心を広くもてるのか
親を憎むこと=自分を憎むこと。
親を受け入れる以外に道はありませんが、小さな心では受け入れられません。
仏教では、計り知れないほど広い心を「無量心」というそうです。
無良心は4つあって、慈悲、思いやり、喜び、寛容・無差別だそう。
心が小さければ、人や社会から加えられた痛み苦しみに耐えられません。しかし、大きければ、その苦痛を受け入れ、苦しみに心を濁らせることなくいられます。
和解をもたらす3つのことば
誰かに怒ったり、感情的になったときに、小さな紙にメモして、いつでも取り出して思い出せるようにしておくといいそうです。
一つ目は「私は怒っています。苦しんでいます。そのことをあなたにわかってほしいのです」
優しく愛情を込めて語りかけます。
二つ目は「私は苦しみに対処するために精一杯、力を尽くしています」
三つ目は「どうか私を助けてください」自分一人ではこの苦しみ、怒りを変容させられないからです。
自分自身と和解する
和解する相手は他人ではなく自分自身である場合もあります。というかそれがすべてなのかもしれません。
実は和解は自分の中で行われれば、それで十分なのです。和解の効果はいずれ、至るところで感じられます。
和解したい相手がたとえ遥か遠くにいても、相手が電話に出たり手紙を開いたりするのを拒否しても、すでに亡くなっていたとしても、和解は可能です。和解は私たちの中で起こるもので、それによって内なる平和がよみがえるからです。新たに出直し、すべてを一新できる可能性があるとわかります。
和解とは、自分の二元的相対的なものの見方と、相手にやり返したくなる傾向を脱することです。どのような形の野望にも与せず、どちら側にも立ちません。
私たちに本当に必要なのは、愛する力がある人々、どちらの側にも立たず、現実をまるごとありのままに抱擁できる人々です。
他人の誤解に苦しまない
自分の人生を生きることによってのみ、自分のとる行動や口にする言葉によってのみ、自分がどういう人間かを自分自身に証明することができます。これができると、もう他人の誤解に苦しみ、心を煩わせることはなくなります。
苦しみは、誤解、怒り、憎しみ、無知から生じます。こうした原因が消え去るように、他人をあてにしていたら、いつまでも待ち続けなくてはならないでしょう。それよりも自分がもっと深まり、集中と洞察を用いれば、周りの人たちが自分自身の考え方や行動、話し方ゆえに苦しんでいることが見えてきます。自分まで同じような苦しみ方をすれば、まず私たち自身の苦しみを変容させ、洞察と慈悲を生み出す必要があります。そのような姿勢と理解があれば、洞察と慈悲によって守られ、もう苦しむことはなくなります。洞察と慈悲は実践によってのみ得ることができるものです。
菩提心
菩提心とは悟りの心、初心。
実践して自分の苦しみを変容させ、多くの人を助けられるようになりたいという願いを起こしたとき、そういう瞬間の心というものはたいそう美しいものです。それは菩薩の心だそうです。
菩薩とは、生きとしいけるものすべてを救うために、あらゆる苦しみから自由になった人です。
菩提心は愛の心と呼ぶこともあります。愛のために実践しているからです。私たちは苦しみから逃れようとしているわけではありません。私たちが求めているのはそれ以上のもの。自分自身の苦しみを変容させ、真に自由な身となり、ほかの人々を助け、苦しみを変容させるお手伝いをしたいのです。僧侶でも僧侶でなくても、それぞれの立場で菩提心という初心を忘れずにいたいものです。それは強力なエネルギーの源泉ですから。
私たちは菩提心によって養われます。そのエネルギーの源泉があれば、戒をよく実践できます。実践するなかで出会う困難にも向き合い、乗り越える力も与えられます。ですから、愛の心を育むこと、初心を維持すること、菩提心を育むことはとても重要な実践です。初心を薄れさせてはなりません。生涯絶えることがないように育みましょう。幸福な人となり、多くの人たちのために幸福を生み出す人となれます。